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ちょっと話題になりました。
蝦&入間利がデートで訪れたと報じられた青島神社。
鵜戸神宮からも見える海っぺりをひたすら北上すると青島神社に到着。
この一本道の向こうにある島が青島で、島の中に神社があります。
途中、『鬼の洗濯板』と呼ばれる岩がひろがり、潮が引いていたのか、その様子をよーく見ることが出来ました。
1000万年前から800万年前の地層が侵食により変化し、現在のような独特な形状が洗濯板のようなところからこのような名称が名づけられたそうです。
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青島神社HP
さっきの★印からこの★印まで右へちょろっと走れば着くと思ったら大間違いでっせ。
仙巌園から飫肥城まで何時間かかったっけ?
4時間くらい?
もっと?
・・・宮崎を別名『陸の孤島』と呼ばれている意味がよーーーーく理解出来ました。
道路が無いんです。
高速? あるけど行きたいトコまで繋がっていない。
アイゴーな所です。
でもその甲斐あってか? 情緒ある良いところでした。
島原(長崎県)、津和野(山口県)に続きまたまた鯉が泳ぐ町です。
㊤これが復元された大手門だったかな?
ココまで来るのにあまり人らしき人を見かけなかったのですが、観光客が多かったです。
旅行会社のおそろいのバッチを胸に団体客が大勢いました。
戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の属城で、はじめ新納氏が治めていた。
1484年に日向中北部を支配する伊東氏が飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代(このときより飫肥城は島津豊州家の支配となる)によって急場を凌いだ。
・・・だそうです。
お城の入り口はクネクネしてますね。 突き当たりを右へ。
だが、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる。1567年、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。しかし、1572年に伊東氏が木崎原の戦いで没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配に復帰した。
伊東氏の没落によって両氏の争いに終止符が打たれたかに思われたが、飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え、九州征伐に参加した功により、再び飫肥の地を与えられることとなった。以後、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで伊東氏の領するところとなった。江戸期、伊東氏は豊臣系の外様大名という微妙な地位ながらも飫肥の地で家名を全うしたが、ひとえに関ヶ原の合戦で東軍側にたった数少ない九州大名だったことが物を言ったのであろう。
祐国が飫肥に侵攻した1484年から祐兵が豊臣大名として飫肥城主となった1587年までは103年の長きに及ぶ。これだけの長期間に渡って伊東・島津氏という2つの勢力が一貫して1つの城を巡って争い続けた例は、日本の戦史において稀有な例と言えよう。